神の恵みによる解放



 ■涙のさけび 

私は、この日本で在日韓国人として生まれ育ちました。私が生まれた時代は今とは違い、まだ人種差別の厳しい時代でした。小さい頃から国籍の違いによる差別と親の夫婦ゲンカ、嫁姑の争い等、家でも学校でも問題ばかりで毎日が苦しみと戦いの日々を送る生活でした。そんな中で私がイエス様と出会ったのは4・5歳の頃です。私は四人姉妹の三女でした。ある日二人の姉が、家の小さな窓から顔を空に向け、天に向かって「誰か私たちを助けて!神様がいるのなら助けて!」と泣きながら叫んでいる姿を見ました。そんなある時、家の近くの公園で神学校を出たばかりの女性伝道師が紙芝居をしていたのです。その紙芝居を通してイエス様と出会うことが出来たのです。その時から私たちは毎週日曜日に教会へ行くようになりました。あの時の姉たちの涙の叫び声をイエス様は聞いて下さり、私たちの苦しい心の中に光を与えて下さいました。私はすぐにイエス様の愛を受け取って、イエス・キリストを信じ救われたのです。

■学校でのいじめ

 小学校の四年生の時、学校へ行く途中忘れ物をとりに家に戻った私は、みんなより遅れて教室に入りました。その瞬間私の体は凍りついたようになって、血の気が引いていく感じでした。黒板いっぱいに私の家の地図が書いてあって、私の家にだけ赤いチョークで丸く囲い「太田千久美の家、朝鮮部落」と書かれていたのです。クラスのみんなに私が韓国人だと知られました。私はあわててそれを消しながら、みんなどんな顔して私を見ているのだろうか?この後私は何をどのようにしたらいいのだろうか?怒るのか?笑うのか?泣くのか?分からなかったのです。みんなの方を振り向いた瞬間、私は何もなかったように軽いのりで「もう~誰なん?こんないたずらするのは!」と笑いながら言ったのです。本当は泣きたいくらいイヤで、みじめだったのにそのままの自分を出す事が出来ませんでした。

その頃から私はいつも、人の顔色を見て人のご機嫌を取り、自分の意見も言えなくなって、気持ちや思いおさえながら生きていくようになってしまったのです。「何で生まれてきたんだろう。生まれてこなければよかったのに」という思いがだんだんと強くなり学校でも、教会でも、家でも、自分は拒絶されているんじゃないかと思うようになりました。そして中学生になった頃から不良の道へ入っていき、教会から離れ神様から離れて世の方へ走り出しました。しかし何をしても空しさだけが残り、時には死にたいとさえ思いました。その思いを何とかする為にお酒に溺れていくようになったのです。毎日毎日夜明けまで飲み歩き、お酒なしでは生きていけなくなってしまいました。しかしこの空しさはお酒を飲んでも、遊んでいても何をしても消えることはなく、更に空しさが増してくるだけでした。でも神様のところに戻りたいと思っても戻れない。どうすることもできない状態が続きました。

■母の病をとおして

  父に対してゆるせないという思いをもっている私は父との二人の生活が苦痛となってきました。食事の時も会話はなく、冷え冷えとした生活でした。その日、私は教会で感謝することができるようにと祈っていただいた帰り道、神様に深くふれられました。父親に対する深い悔い改めがはじまったのです。その時、神様に「あなたは何ものなのか?なぜ父親をさばくのか?」と怒られました。私の心の罪を指摘され、父をゆるすという前に「私をゆるして下さい」と祈ったのです。父親に対して高慢で、父親としての権威を認めず、さばき続けてきた事、父親が悪い事をしてきたのだから、私の父に対する思いは仕方がないと自分で正当化していた事の悔い改めがおこり、ただ神様にゆるしを求め続けました。

■父との和解

  その時から父に対する憎しみや、うらみが完全に私の心の中からなくなっていました。神様は憎しみからの開放を与えて下さいました。今では父と普通に会話をし、親子関係が回復され、それまで言う事ができなかった「お帰りなさい」が言えるようになったのです。去年の暮れから今年の初めにかけて、私と姉は教会からイスラエルへ行きました。姉はイスラエルで突然、緊急手術をしたのです。この事柄は、私の家族にとって大きな祝福となりました。私たち姉妹が神様に献身し従っていく歩みの中で、いつ、どこで何が起こるのかわからないのだと、父はその時知ったのです。そして娘たちが神様に従って行く道を進んでいることを父は受け止め、四人の娘たちを神様にささげる決心をしました。その翌月の二月に、父は自ら教会へ行く事を選び、それを同時に、教会へ行く事を迫害していた二番目の姉のご主人を誘って共に教会へ行ったのです。2001年2月4日、日曜日私たちは家族で神様に礼拝をささげることができたのです。
そればかりでなく、2月5日の長崎殉教記念聖会にも行きたいと強く願った父と共に、私と姉は長崎へ行きました。長崎の地では今までとはちがう何のわだかまりもない、自然な親子の会話と交わりが与えられて父は喜び泣いていました。そして「おまえたちはこの教会でたくさんの愛を受け、みんなから愛されてしあわせだなあー」と泣いてばかりいました。帰ってきてから父は洗礼を受ける決心までしたのです。
  
母の死は、死だけで終わるものではなかったのです。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それはひとつのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」ヨハネ2章4節母の死を通し、また長い間のとりなしの祈りによって私たち四人の娘は今までとは違うさらに深い献身への歩みへと導かれました。そして、父へのゆるしを和解が与えられ、父が救われ、義兄も教会へ行き、家族全員がクリスチャンになったのです、真実な家族の回復が与えられました。母か昇天して二年、この間に私たち家族はたくさんの祈りの実を今、見ています。私が生まれてからの人生をふり返ってみると、最悪だった事や、つらかった事がすべて益にかわり、今では最高の喜びと祝福に変えられている事を神様に感謝しています。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、
私たちは知っています。」  ローマ人への手紙8章28節  
          
 匹田千久美(旧姓太田)

                           




   教会では病のためにお祈りいたします。教会にお越しください。