教会の力、教会の恵み

引きこもり、 人に対する恐れからのいやしと解放

 

 

■知らなかった教会の力

 わたしは、2001年、8月に神さまの恵みによって洗礼を受け、クリスチャンとなりました。
 それからは、日曜日には教会の礼拝に行き、神さまを賛美し、神さまのことばを受けて、わたしの心はいつも喜びに満たされていました。でも、仕事が忙しくなり、休みたい、と思うようになりました。さらに、仕事は忙しく、体も疲れ、家に帰ったら寝るだけの毎日になっていました。わたしは、教会も仕事も辞めてゆっくり休みたいと強く思うようになり、仕事を辞め、それと同時に、教会にも行かなくなりました。その時のわたしは、ゆっくり休んで、また、教会に行けばいいと軽く考えていたのです。わたしは、教会の力をまだ知らなかったのです。

■引きこもりの毎日

 それから、しばらくは毎日、楽しく過ごしていましたが、すぐに、飽きてしまいました。自分があれほど休みたいと思っていましたが、何も楽しい事はありませんでした。家に引きこもり、外に出なくなっていました。いつの間にか、人を恐れ、何もできない自分を責めるようになり、自分の部屋からも出ることができなくなりました。家族が自分の部屋に近づくだけで、押し入れに隠れてしまうほどになりました。どうして、こんな自分になったか考える毎日となっていました。

■「イエスさま、わたしを助けてください」

 暗やみの中で、「神さま、助けて。イエスさま、わたしを助けください」と泣き叫び祈っていました。「わたしを助けてくれるのは神さましかいない。神さま、教会に戻りたい! 神さま、わたしをこの状態から解放してください」と叫び続けました。この祈りが聞かれ、教会に戻ることができました。教会の礼拝へ、祈祷<ルビ:きとう>会へ、行くことができるすべてに行き続けました。そして、牧師に祈ってもらっていました。その中で、いつも同じ事が語られました。

■語られた神さまのことば

「勇士よ。主があなたといっしょにおられる」「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか」(士師記6章12、14節)
 このことばがいつも語られ、思いにありました。教会に戻ってからも、引きこもり状態だったのに、教会だけには、行くことができたのです。2005年に神学校に入り、神さまの恵みによって献身することができました。後から思えば、これが解放を受けるために神さまが導かれたことだったのです。

■与えられた奉仕

 献身し、奉仕が与えられるようになりました。人を恐れるわたしに、神さまは、受付、司会、CS(教会学校)、賛美と、人の前に出て、対応する奉仕を与えてくださいました。教会には行けても、牧師や教会の子どもとも目を合わせて話すことはできない状態のわたしなので、「神さま、なんで? どうして? わたしにはできない」とつぶやいて、感謝することができずにいました。特に、司会の奉仕が嫌で、礼拝を休みたいと思うほどでした。緊張し過ぎて息も忘れるほどになり、頭の中は真っ白になるほどでした。
 でも、そんなわたしを神さまは忍耐をもって導いてくれました。教会の中で、「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(コリント人への手紙第二12章9節)を通して、自分の弱さを喜び感謝するように、弱さを通して神さまが栄光を現すことが語られました。
 今まで、司会の奉仕から下ろしてくださいと祈っていたこと、人を恐れるという自分の弱さを感謝していなかったことを、神さまのあわれみによって悔い改めていきました。神さまに自分の弱さを心から喜び感謝した時、神さまの深い愛が注がれ、神さまがこんな自分を愛してくださっていること、いつも共に神さまがいることを体験したのです。
 そこから、司会の奉仕だけでなく、すべての奉仕について、自分の弱さを神さまに喜び感謝するように変えられ、祈りも変えられていきました。人を見て恐れるのではなく、神さまを思い、神さまを見て、みこころの奉仕ができるようにと、祈り従い続けていきました。わたしが失敗するたびに、神さまはことばを与えて、恵みによって悔い改め感謝することを導いてくださり、やさしく、時には厳しく、忍耐をもって助けてくださったのです。

■教会の恵み、教会の祝福

 毎年の1年間の感謝を神さまにささげていた時に、「あれ? わたし、教会のみんなと大きな声でしゃべって笑ってる!」「あれ? 解放されてる?」と、その時、初めて引きこもりから、人に対する恐れから完全にいやされ、解放されていることに気付き、神さまへの感謝と涙があふれて止まりませんでした。イエスさまは本当に素晴らしい方です。
 「神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」(エペソ人への手紙1章22、23節)
 以前のわたしは、教会にイエス・キリストがおられ、教会に力があることを知らなかったのです。このことが赦されたことで献身し、神さまの恵みとあわれみによって教会にとどまり、失敗しながらも従う中で、いやされ、解放を受けることができました。以前のわたしを知らない方々に、引きこもっていたこと、人が怖くて話せなかったことを証ししても、誰も信じてくれないほど、わたしは完全にいやされ、解放されたのです。すべての事は、わたしにとって祝福になりました。神さまに心から感謝します。すべての栄光を主にお返しします。
                                                小澤ゆみ子(み声新聞590号掲載)


 

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